『プロミシング・ヤング・ウーマン』を観た
You'll always go along,
Defend him where he's wrong
And tell him, when he's strong
He is Wonderful
※ネタバレを含みます
『プロミシング・ヤング・ウーマン』のAmazon Prime見放題期間が昨日までだったので駆け込みで観た。観てよかった。
映画終盤、主人公のキャシーは性暴力事件の加害者アル・モンローの「自己防衛」によって殺される。アル・モンローは泣きながら男友達に助けを請い、男友達はアル・モンローを抱きしめて言う。「君は悪くない」。極めて強固なホモソーシャリティに基づき、男二人は当たり前のようにキャシー殺害の事実を隠蔽し始める。遺棄され火にくべられたキャシーの体は灰煙となって山に散る。そのシーンで使われている音楽が"Something Wonderful"である。(上記動画リンク参照)
私と同様に、この楽曲がミュージカル映画『王様と私』の劇中歌として歌われていることをあなたが知らなかったとしても、この楽曲が流れ出した瞬間に「何か有名な映画で使われた曲なのかな」と直感的に分かるだろう。それほどよくできた名曲である。
映画史に精通している者であればあるほど、「古典的名作」と呼ばれる映画の多くが、男性によって作られた男性のためのコンテンツであるということを否定するのは難しい。一聴して分かるほど古典的な名作映画のスコアらしさに満ちた楽曲を、作中で最もグロテスクな男たちに捧げるという極めて映画的な皮肉に、私は強い感銘を覚えた(楽曲の詳細を知らなかったにも関わらず)。「映画史を更新するような映画的表現」とはこういうものを言うのだと思う。
これに限らず、終盤の音楽のセンスがズバ抜けて良かった(Toxicとかベタだけど良かったよね)ので観終えた後すぐに使われている曲を調べた。ありがたいことに最近は「挿入歌.com」なるサイトが存在しており、英語が分からなくてもIMDbやredditくらいの情報量で映画音楽のことを調べることができる。"Something Wonderful"は映画の公式サントラには収録されていないので、日本語で読める情報元の存在にはとても助けられた。
作中に登場する「ナイスガイ」たちの解像度がことごとく高くて面白かった。小説家の野郎がとくに良かったな。「"この時代に男性として生きること"をテーマにした小説を書いてる」とか「スッピンの方が良いよ。化粧は女性を縛るシステムだ」みたいなこと言ってて、まあ分からんでもないけどうるせーなと言いたくなる感じ。
キャシーの恋愛相手となるライアンが、徹頭徹尾ポリティカリーコレクトな物言いであり、しかもそれがちゃんと「魅力的」に見えるのは良いなと思った(あとで全部台無しにはなるんですが)。キャシーをお持ち帰りしようとしていた小太りの黒人男性を「帽子の男」と呼ぶ=人種や身体的特徴で個人をアイデンティファイしないとことか、品の良いコメディシーンとして結構好きだった(これがコメディにならない世の中の方が良いに決まってますが)。
主人公キャシーにとって目下の粛清対象は、面と向かって女性蔑視してくるわかりやすいマッチョよりも、リベラルな物言いをセックスに誘う手口に使うようなヤリモク共である、というのが面白い。その根底に、レイプ被害により親友ニーナを失い、医学への志を失ったことへのトラウマがあり、さらに深堀りすれば過干渉気味な両親の存在も影響しているという心理学的な説得力がある。映画的なトンデモ展開を下支えしている堅実な脚本はアカデミー脚本賞を獲るだけあるなと思う。
恋人ができると両親が喜ぶ、みたいな、子に「普通」の道を歩ませるための報酬系マニピュレーションの描写があまりにリアルでゲロ吐きそうになった。私は主人公キャシーとほぼ同じ年齢で実家暮らし。たまに出かけると親に「恋人ができたのか」みたいに茶化される。うるせえ。本当にうるせえ。家が広くてやけにたくさん絵が飾ってある、というのもあまりに私の実家みたいで最悪だった。「嫌な実家あるある」って万国共通なのか?
キャシーと男性の人物が同じ画角に収まっているとき、二者の顔のサイズがゾッとするほど違う、という画が何度かあり、意図的に演出しているっぽくてなかなか凄いなと思った。罪の意識から不眠に陥った弁護士に縋られているシーンや、ニーナのレイプ現場に居合わせていたことがバレた後のライアンがキャシーと対面するシーンなどに、真横から男女の顔の骨格サイズを対比するようなレイアウト(しかもどちらも男性が右=上手側)が挿し込まれていて、フェミニズムに立脚したサスペンス/スリラー映画の描写としてかなり強い演出効果を感じた。
観終えた後、私がこの映画を好意的に観ているのは、私の中に少なからぬミサンドリー(男性嫌悪)があるからなのだろうか…?と考え込んでしまった。作中に登場する男たちが戯画的な小悪党のように描かれていることに、言いようのない悲しさ(現実がこんな都合よく勧善懲悪の力学で動くはずがないという諦念)を感じてしまったり、現実に存在する性犯罪・あるいは犯罪にならない性暴力に対し、本作のやり方は何ら現実的な解決策を見出してはくれないのではないかと悲観的になってしまったりもする。それでも、本作はいくつかの希望を見せてくれた。
おせっかい焼きの店長さんを演じているのはトランス女性のラバーン・コックス (Laverne Cox)。本作のようにはっきりとフェミニズムを打ち出した映画において、トランス女性が(そのアイデンティティを映画内でわざわざ説明したりすることもなく自然に)出演しているという事実には勇気づけられるものがある。近年再び人気が爆発し始めた某魔法学校シリーズの作者(a.k.a.名前を言ってはいけないあの人)のように、フェミニストの中にはトランス女性に攻撃的な立場をとる人もいる。ニーナとキャシーの割れたハートによって括られる「女性」の中にはトランスジェンダーも存在している。この事実は重要だ。
冒頭に引用したのは"Something Wonderful"の歌詞の一節だ。本作を鑑賞した上で歌詞全文を読むと、胸やけがするほどにグロテスクだと感じる。本作のエンドロールがこの曲であったらとんでもないバッドエンド映画だっただろう。
Promising Young Womanは「所来有望な若い女性」という意味。もちろんこれも皮肉だ。本作を観れば、世の中がいかに"プロミシング・ヤング・マン"に利するように動いているかが嫌というほど分かるはずだ。映画でさえ長い歴史の中でその悪しき構造に与してきた。『プロミシング・ヤング・ウーマン』は復讐についての映画であり、そして2021年のアカデミー賞にて複数のノミネートとひとつの賞(脚本賞)を獲得した。映画史への復讐はひとつ果たされたと言ってよいだろう。(たったひとつだけだが)